ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

ミイラ取りがミイラに

一連の記事で私が最近考えてきたことは表現できたと思うのだが、ひとつ追加がある。

日常的な「個人心理的人間観(世界観)」において、受け入れることができない不快な体験を前にして、その方の「個別世界的人間観(世界観)」が開く。

他者や、他者と共有する世界が消えていって、すべてが自分が見ている世界になる。

そこでは過去の体験が特定の意味づけによって選択され、それを材料にして未来が予想され、世界や人生が悲観的なものとして色付けされる。

もちろん、不快な体験から逃げたいという防衛的な閉じこもりのような世界だが、そこでは「受容などできるはずがない」と思わせる仕掛けがある。

援助しようとする者が、この人の世界に寄り添い、入り込んでいくと、この援助者もまたこの世界の登場人物として色付けされて扱われる。救世主のように、ときに裏切りの主として。

大切なことは、この人をもとの日常意識に戻して、具体的な出来事を受容できるような勇気と主体性を取り戻すことだが、この「悩みの世界」では、具体的問題は矮小化され、それどころではないと、日常生活が崩れていく。

そして、重要な問題は、この援助者もまた、日常的な共有世界の中にある「個人心理的人間観(世界観)」から離れてしまうことだ。

相手の「個別世界」に飲み込まれて、今度はそのような苦しみにあっている自分を振り返ると、自分の「個別世界」に飲み込まれて、多くの人が普通に共有している世界の中で生きていることを忘れていく。

ミイラ取りがミイラになったようなもので、今度はお互いの「個別世界」どうしの綱引きのようなことが起きてしまう。

私たちが複雑な社会の中で、自立して調和的に主体的選択のなかでライフを創造するには、自分を身体と行動、そしてそれに併行して働いている心という立ち位置が必要である。

そこでは自然、社会、文化、価値観、知識、などが共有されて、自分と他者が対等に存在して関わっている。

個別的世界とは、すべてが自分がそう思っている世界で、他者は別の世界にいる。自己理解や他者共感のためには必要だが、そこにとどまっているわけにはいかない。

以上のことは、他者とかかわるときの注意点でもあると考える。

「あの人のことは自分でないと分からない」「そんな言い方をしたら傷つく」「それができないから困っている」・・

日常意識を超えて、独特な相手との関係性をつくっていくことで、自分も日常から離れていく。そして、そこまでの苦労をしているのに、悩みが解消することはない。

これより前に書いた記事をふくめて、考えてみてほしいことだ。