ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

直線的時間の再考

【直線的時間の再考】

このところ「時間」のことを書いている。

過去から未来へと矢印のように進んでいく、社会で共有された時間感覚とは別に、もっと体感的で豊かな時間を見つけていこうとしている。

時間が成立するためには、その世界の部分が独立して動いている必要がある。

その意味で「個人心理的世界観」の産物だと書いた。

しかも、人間のもつ「感覚記憶」の力で、視覚や聴覚情報がごく短い時間保持されることで、時間が流れているように自覚できる。

そして、社会生活での先の約束など出来事への参加をすり合わせるために共有化された時間観念があるが、これは「記憶・観察・予想」という個別世界的人間観のなかでエピソード的に扱われるとも書いた。

このような時間感覚の切り替えは、人間観の切り替えでもある。ここに感情や悩みや矛盾が流れ込んでくる仕掛けがある。

しかし、このようなことを確認しても実践的にはやむなきことで何ら対策が立てられない。

そこで、もっと異なった時間感覚について明確化していくことが重要だと考えている。

たとえば、原始時代の人間を想定してみて、動物の足跡やフンをみて、あるいは臭いで、どれくらい前に通ったのかという「現時点」から過去へのさかのぼりの時間感覚がある。

また、干し物など食品加工をするときに、その仕上がりから時間をさかのぼることもできるし、また、どれくらい先で次の工程に移れるかもわかるだろう。

しかし、この「時間」は自然環境の微妙な変化を取り込んだものであって、空模様から、翌日の湿り気や乾燥をよむことや、渡り鳥の到来の時期や動物たちの動きをよむことにもつながる。病の回復の経過や死すべきときの予測もあるだろう。

つまり、これは時間をよんでいるのではなくて、自然の流れをよんでいる。複雑な出来事の動きをよもうとしている姿だ。

それに比べたとき、社会生活で共有されている「数字」で表せる時間は一体何だろうか。人間と人間が関係性をすり合わせるためのサインのようなものだ。

そのサインをつかって、未来を予想して出来事を生成していこうとするときに、他者や自然や社会の動きは固定され、情報化され、自分を主人公としてエピソード的に予測するしかない。

その予測が他者と同じとは限らないし、自然や社会は別の動きを見せているだろうに。

私たち人間の未来予測は、都合のよい「計画」であり、自然や社会全体や他者のおりなす流れから切り離されている。

まずは、この流れを読むことのできる感覚を取り戻そう。

結局、すべては目の前の出来事であって、その足跡やにおいで過去が見えて、空気の湿り気や動物の動きで未来が見えるような、つまり、出来事をこちらの解釈で過去、現在、未来と言っているのだという自覚。

そこから離れた時間感覚は、個別世界的人間観の自分の世界の思い出と予測にすぎない。