社会制度の背後の精神性
人間は集団としての協力体制によって生存をはかる生きものだから、そこには制度・仕組みという形と、その背後の精神的な価値観が一体となっている。
時代の変遷により集団的生存の仕組みが変わるとともに、背後の精神性もまた変わっていく。
資本主義の勃興期にはプロテスタンティズムが関係しているとも言われていることも一つの例ではある。
農林漁業を糧として集落と家族で生存を図っていたときの精神は氏神様を中心とした地域の枠組みであり、違反すると村八分になるような凝集性と排他性。あるいは、祖霊の崇拝、家の存続を価値観にすえてあっただろう。
さらに、家族愛、親の無償の愛、親への子の信頼、親孝行、敬老精神などが人間の行動を支えていたし、その行為は生存上合理性があった。
しかし現代社会においては、家族の生存上の機能は、社会の中へと解き放たれて外部化されて、個人と社会の関係として価値観も語られるようになった。
かつての家族の場合には、生存のための手段や形式と、それを支えている精神が一体となっていたが、外部化された生存の場所では「市場原理」「法的規制」が支えているだけで、精神性は各自の価値観にゆだねられてしまった。
子どもたちの生存の場である「学校」でのいじめ、不登校などは人権という法的視点や管理体制でとらえられて、そこでの精神性が問われることはない。
職場という生存の場では、パワハラ、セクハラ、モラハラ、ワークライフバランス、メンタル不調などの問題も、やはり人権と管理体制の問題としてとらえられ、精神性は各自の価値観にゆだねられている。
人間の個性化、自立という時代精神のなかでは、集団的価値観を強制することは悪であり、個人の精神の自由がなにより尊重される。
しかも、資本主義の論理は社会に根深く浸透しているので、個人が対価を得るために労働を提供しているという観念から抜け出すことも難しい。
それは雇用者側にも言えることで経営の苦労を社員が分かってくれるものでもなく、社員に精神的な価値を伝えることも難しく、やはり権利と義務の関係性を抜け出せない。
家庭にあったときには、精神性の裏打ちのあった生存集団が社会化されていったときに、価値観や精神性が脱色・脱臭されてしまった。
この自由な個人が集団の中でお互いに善意ではあっても対立しトラブルを生み出している。
価値観とは誰かが誰かに植え付けるようなものではなくて、社会、集団で共有するものである。
その共同化された信念をどのように生み出していくのか。
それをしない限り、個人のセルフコントロールの力だけ高めても、この社会のなかのストレス被害は減らないだろう。
科学や学問に基づく知識が現代での説得力になっている以上、このようにライフストレス研究を続けていき、それを理解してもらうしかない。