人の目を気にすること
「人からどう思われるかを気にしすぎる」といって悩んでいる人が多い。
そういう人に対して「自分がどうしたいか大事だ」から人からどう思われてもよいと思って行動に移すようにとアドバイスする人がいる。
それができないから苦労しているのに。
そのアドバイスをする人は「自分は人の意見に左右されないし、自分の意思で行動している」と思っているから言えるのだ。
しかし本当にそうだろうか。
その人は自分とは違った考えに取り囲まれて、本当に孤立無援で「他者の目など気にせずに行動できているのだろうか。
また、よく自己肯定感が低いからうまくいかないのだ。もっと自分のことを認めてほめてあげようという人がいる。
自分がどのような集団に属していて、その集団をまとめている精神性はどのようなもので、他者が自分のことをどのようにみていると自分が思っているか。
それらを無視して、自由意志も自己肯定感もないと私は思うのだが。
本来、人生上の問題は目の前の出来事を構成している様々な要素や視点によって複眼的にとらえる必要があるが、それを個人の人格という鏡にうつして、個人の人格上のテーマとして扱うことになる。
このような偏り・バイアスが生まれるのは、他者や環境を変えることは難しく、変えられるのは自分だという方法論的制約から、集団や他者、社会的視点が外されてしまう。
確かに他者や集団を変えることは難しいだろうが、それを問題の構造を見出すときの視野から外すことはないだろう。
なぜなら、他者をどのように思うか、集団をどのように思うかという点において、選択の余地があり、主体性が働くからである。
もとの問題に戻ろう。他人の目が気になってしかたないという悩みを前にしたときに、その他人とはだれのことか、どの集団でのことか、例外はないのかという問いを発する必要がある。
すると、他人の目を気にしない人間関係を有している場合がある。
あるいは、最初はあったのだが、他者の目が気になるという現象が拡大して、汚染が広がっていって、今はすべての人になってしまったという経緯が発見できるかもしれない。
特定の集団において、なぜ、他者の目が気になるか。それは自分の味方であるか、敵であるかが明確ではないからだ。
私たちは、共有された価値観という表現をするが、実際には「仲間が自分をどのようにみているか」という視点のことでもある。
他者の目が気になるということは、その集団の信念・価値観・規範が見えておらず適応的な言動がとれないという訴えである場合がある。また、他者が自分のことを仲間だとおもってくれているのか、それが分からないという場合もある。
このような探求を抜きにして、ただ自己肯定感が低いとか、他者の目を気にしすぎるという個人の人格上の問題に還元してしまうことでは限界があるだろう。