ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

家庭教育と柔軟性

パーソナリティー論・発達理論は、心理学者の努力で社会の中に浸透した。

功績としては、個の自覚を強めることになり、今日の社会の多様性を認める方向につながっているのだろう。

そして、個の自覚は経済合理的判断と相まって、労働・消費を通じて「市場経済」を維持していく背景となっているので産業的な要請でもある。

職場と自分の関係は希薄で帰属感も低くなり労働市場は流動化してよい条件のところに移ることは当然のことになった。

また消費にしても、親類、友人、地域の商店であるという親密さよりも、品質や安さで選ぶことも当然のことになった。

弊害としては、心理社会的な問題を「個人のパーソナリティー」の中に求めてしまう傾向であり、その起源として発達の過程の中に原因があると考えてしまうことだろう。

生き辛さを抱えている方々は、その原因を自分の受けた子育てや家庭環境であると考えている場合が多いし、専門家だけでなく一般の方も何かトラブルがあった方をみると、その人の過去に何があったのかと考えて、特殊な事情があると納得するという傾向もある。

しかし臨床の場で20年以上様々な方に関わってきた体験からすると厳しい幼少期を経ても健康に暮らしておられる方もいれば、特殊な事情など見当たらないのに長じて不適応を起こしておられる方もいる。

専門家から、乳幼児期、あるいは、子育ての過程で、親の愛情が足りなかったのだと指摘される場合がある。

親が子どもを育てる苦労は並大抵のものではないのに、その中に込めた愛情が不十分であったと言われても親はどうしたらよいのだろうか。

もちろん、「虐待」「育児放棄」の場合の子育てには確かに問題があっただろう。ここでの議論とは分けて考えたい。

私には問題の本質は違ってみえる。それは今を生きるときに

他者や集団と調和して自分を生かして進もうとするのだが、行動選択をささえている「信念」「思考パターン」「行動パターン」がうまく機能しないという課題だと考えている。

子ども時代に家庭の中で生きていくために選択した信念や思考・行動パターンは、地域、学校、各種集団、職場、自分がつくる家庭、社会・・と所属する集団が変化していくなかで、ある程度変えていく必要がある。

それをうまく変えることができないがゆえのトラブルであって、信念・思考行動パターンを変えることが解決だと考える。

今までの自分のやり方が通用せずに挫折したときに、新しいやり方を作り出していくこと。郷に入れば郷に従うという柔軟性があればよいのだと思う。

ところが、現代では集団性が低下して、自分とは「信念・思考行動パターン」だと考えられているので、それを変えることは自分をなくすことのように思えて心理的抵抗が起きる。

様々なトラブルは、現実や集団、社会が、信念・思考行動パターンを変えようと働き掛けてくることが、まるで「自分」を圧迫して消し去ろうとしてくることへの「抵抗」として起きていると考える。

思考は「信念」の配下にあって、トラブルの中で「なぜ、自分はこのように苦しむのだろうか」と悩みながらも「自分」を変えないように画策することになる。

では、子育て中の「愛情」不足ではなくて、「信念・思考行動パターン」の硬直化の問題だとすると、この議論のずれはどうして起きたのか。

それは、家庭内で子ども時代に形成された「信念・思考行動パターン」が一方的に親から与えらえたものか、子どもと親の相互交流の中で成立したものかの違いだと考える。

相互交流のなかで出来た信念・思考行動パターンであれば、成長のなかで、友人との関わり、先生との関わり、別の大人との関わりによって、相互交流によって修正されていくはずだ。

しかし、一方的に与えらて固定した信念・思考行動パターンが「自分」であるとすれば、だれと出会おうがそれを守り続けていくことになる。その不自然なありようを教えるために心理的苦悩やトラブルが起きていると考える。

親が子どもを完全に掌握して、教育をしようとすると、子どもは逃げ場がない。

どこかで親以外の人間が違う信念や思考行動パターンがあることを示していたり、友人関係のなかなど親が知らないところで異文化に触れることがあればいいのだろうが。

かつては、生活のために親も忙しく、祖父母との関わりもあり、地域の子どもには子どもの世界があって、そこで学ぶものもあった。

つまり、親の愛情不足という意味は「一方的ではいけない」「交感・交流」でないといけないという意味にとりたい。

かつての家庭は、一次産業をイメージしてみると分かりやすいが、子どもも年寄りも誰もが自分にできることをして生きるために協力しているという大前提があった。

そのなかで子どもは大人をモデルとしてみて信念・思考行動パターン、とりわけ集団の中での生き方を学んだ。

その状況と、将来のためにと、親が何かを教え続けることとの違いについて考えてみる必要があるだろう。

生活に根差さない「情報提供」「知的教育」「体験教育」が子どもの柔軟性を奪っているのではないだろうか。