ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

集団性の根差さない言葉の教育

生き辛さの問題や環境不適応にまつわるトラブルは、信念・思考行動パターンの固定性(柔軟性の不足)にあると書いた。

しかし逆に、信念・思考行動パターンの一貫性のなさ(固定性の不足)もまた人生上、信頼を得て、価値あるものを創造しようとすることを阻害するだろう。

この信念・思考行動パターンの「固定性・柔軟性」もまた、「主体性」の表現であると考える。

つまり、環境や周囲の状況のなかで場当たり的に行動選択をする者の末路、環境や周囲の状況に関わりなく「自分」らしいと信じる行動選択をする者の末路。

この両極をさけて、守るべきものは守り、変えるべきものは変えること。そのためにはどうしたらよいのか。

たしかに、子どもが学校に行けなくなったり、心身症に苦しんでいたり、生きる気力をなくしたときに、親は自分の子育てを振り返り、何が間違っていたのだろうかと後悔する。

しかし、親が失敗したから子どもが苦しんでいるとすると、子どもは「失敗作」になってしまう。親は神ではない。親の思いどおりに子どもはなるものでもない。

なのに、何かあったら自分のやり方が悪かったというのは、ある意味傲慢ではないのか。

家族として、親として、一緒に問題に向き合って子どものために何ができるかを考えて取り組むしかない。

私が関わってきた子どもたちは、元気になっていくと、親から見ると「いい子」でなくなっていき、親にも反抗的になり、批判・非難するようになる。

それが理由で私は親から「先生とかかわったせいで子どもは変わってしまいました。学校にいってほかの子どもたちのように勉強できるようにしてほしいのに、先生は役にたっていません。かえってください」と何度も契約を切られたことがあります。

心理学者のいうように「子育て中の愛情不足」説だとすれば、親の愛情をさかのぼって求めているがゆえの反抗だとされます。

そして、子どもにやさしくして、願いを叶えてあげて、一緒に寝てあげたりして、子どもが幼児化していくことになります。

それが間違いだとは言いませんが、仮に私のいうように、「信念・思考行動パターン」の固着(柔軟性の不足)が親の一方的教育によっておきたとすると、親との交感、交流、相互関係のなかで「信念・思考行動パターン」を変えていく関わりが必要になります。

そのためには、親が子どもから逆に学んで、自分自身が正しいと考えて子どもに教育した「信念・思考行動パターン」について見直していく作業が必要になります。

なぜなら、それを実践してうまくいかなかった子どもが、親の信念等が不都合だと教えてくれているのですから。

その意味で思春期の親子のトラブルはお互いの信念等の見直しの場であると考えます。もちろん、親自身が自分の信念等を変えることは容易ではありません。

その意味で子どもはモデルになる人との出会いを求めて親から去っていく傾向もあります。

しかし、物理的に距離を置いても心理的には、親から与えられた信念等にしばられているので、親の協力なしに変わっていくことは困難な場合があります。

これまで、多くの青年たちが、親に変わってもらおうと子ども時代の苦悩を話したり、手紙を書いたりしてきましたが、親がそれを認めて変わってくれることはありませんでした。

親自身は自分なりの信念等で生きてきて不都合がないのですから変えようとはしません。

ましてや、発達理論でもって愛情が足りなかったという表現で子どもが非難しても受け入れることができません。

そして、ここにはもう一つ、隠れている課題もあります。親自身の信念・思考行動パターンは偏っているとしてもそれなりに現実的なものです。

しかし親が子どもに「教育」という形で与えた信念・思考行動パターンは親自身も実践していない「理想的」なものであって、本気でそのように生きれば生き詰まるものなのです。

生きるために家族として共生していくなかで、大人から子どもが学んだ内容と、子どもをよい子にしたいと言語で理想を与えたものの違いがあるのです。