ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

愛情不足論を超えて

信念・思考行動パターンの柔軟性を取り戻すために、種々のトラブルが起きていると書いた。

集団に即応した信念等を身につけていくには、自分とは「信念・思考行動パターン」であるという自己保存的執着から離れないと難しい。

仮にこの固着性が子ども時代に形成されたとすると、親も実践していないような理想を「言語化」して与えられたことに原因があると考える。

現実は複雑であって、ひとつの理想や理論で乗り切れるものではない。出来事に際して刻々の判断と選択によって生活や人生は創造されていく。

子ども時代には、しつけや道徳心の萌芽という意味では、教訓や教えも意味はあるが、それが強すぎると融通がきかない人間になってしまう。

家族が生きるために団結してだれもが役割を果たしていた時代では、子どもは大人をモデルとして、生きるすべとしての「信念・思考行動パターン」を学ぶことができ、「言語化」されたものは、それを保持するための重しに過ぎなかっただろう。

これに対して、生きるすべとしての家族の機能は外部化されて、子どもは親の働く姿、生きる姿を本当に意味で目にすることがなくなった。

家庭はもっぱら子どもの養育専門の場となり家族で楽しい体験をすること、子どもに親が何かを教える場になってしまった。

子ども向けにつくりなおされた「信念・思考行動パターン」は言語で伝えられるが、実際のところ親はそれとは別の信念等で生きている。

しかし子どもにはそれが分かるはずもなく、現実的でない「理想」を心の内に秘めて大きくなっていく。

このような事情を「親の愛情不足」といってしまうと、解決策として、大人になってからロールプレイで子ども時代の愛される体験のドラマを演じるというような方向や、退行してもう一度育てなおしをしてほしいという方向性になってしまう。

答えのようなことを書ける段階にはないが、せめて、「信念・思考行動パターン」を個人のパーソナリティーの中に見るのではなくて、集団性・社会性の視点で再解釈していくことが必要だと思う。

社会の中で流布している「言説」、親が語っている「言葉」、それが子どもたちにどのような影響を与えているのか。子育ての中で何が起きているのか。

家庭や社会の構造や仕組み、性質のなかにヒントがあるかもしれない。