ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

集団的自己から考える

個性的自己と集団的自己の対立としてメンタルヘルスの課題を記述してきた。

たとえば、不登校、いじめ、出社拒否、ひきこもり、発達にまつわるトラブルといった出来事についても、個人のパーソナリティの問題ではなくて、個性的自己としての「信念・思考行動パターン」と集団的自己としての「信念・思考行動パターン」の関連から説明しようと試みている。

不登校にしても、家庭内で親と「縦」の人間関係を構築してきた子どもが、今度は「子ども世界」のなかで「横」の関係を構築できるように成長していく必要があるが、発達課題としてそれを乗り越えていくために起きていると説明されることがある。

これが発達理論による個人のパーソナリティとしてのとらえ方である。

しかし、私の臨床経験では、不登校になった子どもが持っているような課題、特徴はほかの子どもにもあるのであって、個人の課題というよりは、集団性と個人性のミスマッチとしてとらえたほうが理解しやすいと感じてきた。

教室では、先生と生徒たちで集団としての空気がつくられている。信念体系・価値観・言説・規範を含みつつも、それらの言葉ではカバーできない無自覚な集団の「精神」がそこにはある。

その精神に反する者、なじめない者が出てくる。ある種の「文化コード」であるので、それを習得しないと仲間として認められないし、交流、交感、相互扶助の関係がつくれない。

子どもたちが、メールやラインに必死になって時間をおかずに返事を返すのも、クラスの会話に入っていこうとするのも、先生という「まとめ役」の前では「いい子」をみせて、見ていないところ、ネット上で感情発散をするのも、この「村」で生き抜いていくための手立てであると思う。

よくも悪くも自分が目立たないようにしている子どもに対して親は「もっと自分をアピールすればよいのに」とか「そんな欠点は気にしなくていい」と励ますだろう。

個人のパーソナリティについて扱うのであれば、それは正解であるが、親には見えない「村の空気・精神」との兼ね合いであるとすると事はそう単純ではない。

集団の中では、本人の希望は別にして、それぞれの立ち位置が決まっていき、お互いの目で評価しあっている。あるいは小グループができていって、グループからのメンバー移動、孤立、集合など動きが起きている。

このような中で生じた子ども間のトラブルを善悪でさばくことは難しく、表面的に出てきた「加害者」「被害者」のレッテルも実体とは異なるかもしれない。

そして、親や先生にとっての解決策として、子どもの話し合い、そして謝罪と和解という儀式は必要なものではあると思うが、子ども世界、「村」のなかでの解決はまた別の力学で進んでいくものだろう。

ときに、子どもは、教室には入れないが、運動部には参加できるとか、保健室には入れるとか、特定の先生の授業には入れるとか、学年が変わって違う担任の教室になると行けるとか、場面によって行動が変化する。

従来は「自分のことを理解してくれる情緒的な支援者」がいるからだとされていた。

しかし、本記事の立場では、ことなった集団の持つ空気(信念体系・価値観・思考行動パターン・精神性)と、自分がもっている信念等の親和性が高いからだと解釈される。

ただ、以上の説明は不徹底である。それはあくまで、集団的自己とは別の「個性的自己」があるという前提だからだ。

私は、個性的自己も集団的自己の変種であって、すべては「集団的自己」で説明するほうが核心に迫ることができると考えている。  

つづく。