ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

不登校・ひきこもりと集団的自己

集団的自己と個性的自己の関係としてメンタルヘルスの問題を説明してきているが、すべてを「集団的自己」として説明するほうが実体に迫れると考えるようになった。

近代的自我の精神は、個の独立をもたらし、市場経済を成立させて、人権の確立、個性の尊重、多様性のある生き方を導いてきた。時代がもとめた精神運動といってもよいだろう。

しかし、それは常に個を圧迫する集団的圧力との闘争として表現され、多様性のある生き方を認めない常識への挑戦でもあっただろう。

ただ、冷静に考えれば、この運動は個人を社会と切り離してしまうものではない。つまり集団的自己を否定して個性的自己を立てるものではない。

むしろ、小さな集団的自己が大きな集団的自己に圧迫され吸収されて消失することを防ごうとしているように見える。

特殊な病気で苦しんでいる方、依存症の方、自死した方をもつ家族、性的少数派の方々が自助グループをつくって、支え合おうとしているのは、孤立した自己を立てるというよりは、社会の一員としてしっかり認めてほしいという要請である。

ここで思い出してほしいのは、集団的自己とは「集団の中で流布している言説」を受け入れて、それを信念体系・価値判断・思考行動パターンとして生きていくことであった。

私が現場で「ひきこもり」の方や親と話をしてきて感じるのは、「社会の中で職業を得て他者から認められて経済的にも豊かになる。学歴も必要。人間関係を豊かにしていかないといけない」等々、現代社会で流布している言説をそのまま受け入れておられることだ。

そして、そのような言説を自分の内にも持っているのに、それが挫折してできない状況、今から取り組んでも追いつけない状況、いくら頑張っても手に入らないような予測があること。

自分で自分を傷つけ、呪い、否定して、行動化しても極端な行動にでるか、本来できることも取り組めない。このような状況は本人や家族にとっても苦悩であるが、周囲の人と交わしていく言説が自分たちもしばっていく。

仮にゲームや動画やネット小説などに没頭することで、自分を支えようとしても、それを周囲がどう見るかという「まなざし」の負担があるだろう。刹那的な逃避のはずが常態化していく。何から逃げているのかというと、それは自分の中にある「社会から得た言説・信念体系」が自分を責めてくることから逃げたいのだが、それが難しい。

不登校の子どもやひきこもりの方を持つ家族の会などでも、お互いの話を聴いて、まとめ役の先生が新しい「言説」を提供していき、この集団の中では新しい信念等が構築されていくことで、以前より暮らしていく力を得ておられるだろう。

この問題はこれ以上深入りしないで本題に戻ると、「個性的自己」と「集団的自己」の対立としてとらえるのは現代のフィクションであって、人間は本質的に「集団的自己」であると提案したところだ。

よく、職場での自分、友人との自分は、本物の自分ではないと言われる方がおられる。そして、家にかえって好きなことをしているときの自分、苦悩して涙を流している自分のほうが本物だと。

私には、すべてが本物の自分だと思えるし、仮に職場の自分を偽物だというのなら、すべての自分も偽物である。

家に戻っても本当に一人になれるわけではない。職場で流布している「言説」を想起しているときには、職場の自分が家で出現しているのだ。だから挫折したことで涙が出てくる。

家にいるときの自分が職場と違うというのなら、それは家族という集団の言説を受け入れている自分である。

いや、家族と暮らしていても、自分は自分である、部屋では自分のことを分かってくれない家族と顔を合わせなくていいので本当の自分に戻れるという。

しかし、それは友人たちとの中で成立している「自分」ではないのか。離れていても、それが出ているのではないか。

いや、友人のなかでも自分は心を開いていない、家族にも、だから私は私で、何の集団にも属していない私なのだと。

本当にそうだろうか。

アイドル、アーチストを追いかけて心酔すること、ネットゲームのギルドで仲間と活躍すること、スポーツ界のヒーロー、アニメの声優さんに夢中になること・・ここにも集団的自己が成立しているようだ。誰かと語り合いたいという願い。

リアルの世界で好きなことを追求して活動していくことも、自己表現・自己実現というようも新しい集団的自己の世界を広げているように思える。

そして、このような「言説・信念」の受け入れが集団的自己の成立と関係するとなれば、時間を超えていくことも考えられる。

過去の仲間と交わした言葉が、自分を創っている。高校の部活でもいいが、本当に仲間とつながって何かを目指したときの自分が今もあるのではないか。

逆に、子ども時代に構築した親を中心にした家族集団のなかで生きてきた自分もまた集団的自己である。

その古い自分を変えてはいけないものだと守り、今は変わってしまった家族の前でも、友人の前でも、職場でも出していることが不適応の問題だと考えてはどうか。

そもそも、「われ思うゆえにわれあり」とか「自分に選択する精神の自由がある」ということは決定する力、「主体性」の証明にはあるかもしれないが、それが独立した自分、自我の存在証明にはならないだろう。

むしろ、「個」がむき出しになるのは、集団的自己という精神性が、実際の集団の人間関係のなかでうまく機能しないときに出てくるサインのようなものではないのか。

集団のなかで自分をうまく生かして調和的に暮らせているときには、集団を意識することなく、自分の決定が周囲にも認められているという感覚のなかにいるはずだ。

では、強く、強く、個を自覚しているということは、過去、現在、そして未来の予測としても、様々な集団のなかで、自分が有している集団的精神性が通用しないという感覚のなかにいることになる。

しかし欧米的な価値観、そしてそれに追随する心理学的価値観では、人間は自立をすることが課題であって、そのうえではじめて他者を愛することができて、さらには社会に貢献しようとするとされている。自分を確立できない者は、依存と支配の関係性に陥りやすく、他者に飲み込まれてしまうか、他者を飲み込んでしまおうとして、それがうまくいかずに破綻するという。

欧米的な価値観でいうところの自立とは、心理学的には「アイデンティティ」の確立ということになるが、それと本記事の関係を探ってみる必要がある。