ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

アイデンティティと集団的自己

アイデンティティと「集団的自己」の関係を探る必要があると書いた。

以下の引用文章を読んでもらうとアイデンティティについて、次のことが明らかになる。

「社会的価値やイデオロギーに自分の能力を捧げたりする事の出来る性質」(忠誠性)を確立するためのものであること。

それまでに獲得してきた様々な自己の部分を整理しなおして、適切に選ばれた忠誠を誓えるような対象と自己の活動を見出すこと。

その過程で否定的な部分は捨てられてアイデンティティとして確立する。

つまり、成長の過程で、様々な集団的自己を形成してきた人間が社会に出るにあったって、それらを整理して捨てるものは捨てて、取り入れるものは取り入れて(役割実験)、様々な場面でうまく機能する「集団的自己の総体」としての「自己」を形成することと読み替えてもよいのではないか。

そして、その総体としての自己がむき出しになって、特定のことにのめりこんだり、孤独になっているのは、「役割拡散」「排除性」の状態を示しているのではないか。

いじめ、不登校、出社拒否、ひきこもり、特定の活動へののめりこみなどについて、個人の発達としてではなくて、集団的自己の総体としての形成がうまくいっていないととらえてはどうか。

そして、それは家庭、学校、職場、社会の集団形成につかわれている「言説」(信念体系)が不完全なものであるから、それを受け入れて集団的自己を形成した者のなかから集団に合わなくなってくる必然性があるのではないか。

つまり、理想にすぎると言われるかもしれないが、不登校がありえない学校、自主退職がありえない職場などを形成することが可能ではないかということだ。

もちろん、そのためには社会に流布している言説から離れて、新しい信念、思考行動パターン、そして新しい「言説」によって集団をつくりなおさないといけないのだが。

現在では、発達障害の方々で運営している会社、精神疾患の方中心の社員の会社、退職する人がいない働きやすい会社、不登校の生徒がいなくて発達障害の子どもも一緒に学んでいる学校などがあると聞いている。

その実態については、もっと調べてみないといけないが、それらの集団がありえるのは、ハウツー的な組織論ではなくて、集団形成の信念体系から異なっているはずだ。

そして、それを表面的にみて真似しようとして失敗する集団も多いだろう。形式を映しても、旧い言説が交わされている集団ではそれは変質していくからだ。

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ウィキペディアでは、「エリク・エリクソンによる言葉で、青年期の発達課題である。青年期は、「自分は何者か」「自分はどんな人生を歩みたいか」「自分はどんな仕事がしたいのか」「自分の趣味は何か」「自分はどうして生きているのか」といった問いを通して、自分自身を形成していく時期である。

そして、「これこそが本当の自分だ」といった実感のことを自我同一性と呼ぶ。

エリクソンによる正確な定義は様々に存在しているが、アイデンティティ獲得の正反対の状態として、役割拡散や排除性が挙げられている。

アイデンティティが正常に発達した場合に獲得される人間の根本的な性質としてエリクソンは「忠誠性」を挙げている。

この忠誠性は様々な社会的価値やイデオロギーに自分の能力を捧げたりする事の出来る性質である。

これが正常に獲得されないと、自分のやるべき事が分からないまま日々を過ごしたり、逆に熱狂的なイデオロギーに傾いてしまうと考えられている。

自我同一性を獲得するために社会的な義務や責任を猶予されている準備期間を心理社会的モラトリアムと言うが、これはアイデンティティが確立するまでの猶予と言う意味を表しているに過ぎず、エリクソン自身は青年が様々に葛藤したりする戦いの時期として捉えていた。

この時期に青年はそれまでに獲得してきた様々な自己の部分を整理しなおす。その結果、青年には適切に選ばれた忠誠を誓えるような対象と自己の活動が残り、また否定的な部分は捨てられてアイデンティティとして確立する。