言葉による教育と感情問題
家庭としての集団的信念を持ちにくい現代において、親が理念的な言葉による教育で子どもの信念を形成しようとすることに問題があると書いた。
家庭で親が子どもと共同作業でつくっていく生き方を支えるための信念・思考行動パターンは、教師のように知的に「教える」ことではうまく育たないのではないか。
「ことわざ」集などを読んでみると分かるのだが、まったく正反対のことが記されている。善は急げ ⇔ 急いては事を仕損じる等。
それは複雑な現実に向き合うには、その場面に応じて、相手に応じて、集団に応じて対応をかえていく必要がある。それを紋切り型に、自分の信念等を固着させて柔軟性をなくせばうまくいかないのは当然だろう。
しかし、逆に相手や集団に合わせるばかりで信念等が流動的すぎるのも問題である。どのパターンでもよい面もあれば悪い面もある、一定の型をもつことで経験値があがり、起きやすいトラブルもわかり対処可能になる。
人間が習得していくもののなかには、言葉や理論で知的に伝えることが可能なものと、実際にモデルを観察して自分も実践して体得していくものがあるのだろう。
世界観・人間観・信念については、言葉にすることが難しいし、それを伝えるものは自分自身がそれを日々活用している実践者でないといけない。
人間は人間の生き方から自分の生き方を写し取っていく。
親が言葉で子どもむけに良いはずだと信じて言い続けた
事がもし親も実践できていない、理想的で非現実的なものであれば、それを呪文のように抱えてしまった子どもは現実のまえに困惑してしまうだろう。
また、人間は「言葉」よりも、その背後にこもっている感情のほうに反応してしまう存在である。
親が子どものためだといって、子どもの言動を分析して「かくあるべし」と注意し与えた言葉には「叱責的な雰囲気」「冷淡な空気」「突き放す」ような感情がないだろうか。
子どもは未熟なものであるが、その子の価値とは関係がない。親は教育と称して、その子供にネガティブな感情を放ってはいないだろうか。
子どもが長じてから、自分は親から愛されなかったと述懐するのは、養育の苦労やそこに込められた愛情を否定しているのではなくて、この「教育」の対象とされたなかでの「感情的交流」のゆがみのことを指しているのではないだろうか。
だから親は子どもから批判されると「自分は子どもを愛してきた」と受け入れることができない。
しかし、この「教育」という関係性のなかで、どのような感情交流が起きていたのかを振り返ると何かに気づくのではないだろうか。
はたして、親だからといって、大人だからといって、これからを生きる子どもに対して、生き方を教えることができるほど偉い存在だろうか。人間はどこまでいっても不完全な存在である。
子どもが将来苦労しないように、幸せになるように、そのためには学力が必要だ、社交的な性格が必要だ、日常で見受けられる様々な欠点は治してあげないといけないと思う。
それは本当に子どもにとって良いことだろうか。
親は子どものおかげで親にしてもらっている。子どもと同様、新米の未経験の親である。だから、一緒に交流、交感、相互関係のなかで、お互いに育っていくしかない。
ましてや、自分にもできてないことを子どもに求めていくことがよい影響を及ばすだろうか。
この問題については、分からないことだらけである。同じ図式が学校の在り方、職場の在り方、そして、もともとの家庭の在り方と関係している。
たしかに、信念は社会のなかで交わされている、流布している言説によってできているのだろうが、それによって影響を受けている感情の裏付けがある。
不安、心配、恐怖、自慢、高慢、楽観、悲観・・人生観・信念の背後にはそれによって引き起こされている感情がある。
親が子どもに向き合ったときに、何におびえ、何をのぞみ、どのような感情を抱えているのか。そして、それを受けてどのような言葉、信念を大切にしていくのか。
このような研究が必要になってくるようだ。
もうすこし、このテーマが続いていく。
自然ー身体ー感情ー思考ー信念ー集団ー社会という連なりが人間だと書いたが、ここで「言葉」と「感情」がどのように関わっているのか。考えていく必要がある。