ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

集団的自己と個性的自己

信念・思考行動パターンの流動性は「集団的自己」として、固着性は「個性的自己」として扱えると書いてきた。

そして「個性的自己」は「信念・思考行動パターン」を自分だと考えて保存して、それを変えようとする他者や集団の圧力に抵抗するものだと書いた。

また、「集団的自己」は、集団で共同でもっている「信念・思考行動パターン」に同調していこうとするもので、そこで個性的自己としての信念等を表現するものは排除される。

このような両極の表現をすると別物のようにみえる上記の区分であるが、集団が安定的で共同の信念等が変わらずに、個人の信念等がそれと同じ場合には表裏一体の関係となり区別するようなものではない。

しかし、個人の信念等が変化して集団と合わない場合、集団の信念等が変化して個人が取り残されていく場合には、上記の両極の姿となりトラブルが発生する。

家族という集団で、人間は育っていくが最初に親との関わり、祖父母との関わり、兄弟姉妹との関わりのなかで、「信念・思考行動パターン」を形成していく。

もちろん、遺伝的な体質、気質というベースがあるがそれは感情的な反応の特徴であり、「信念・思考行動パターン」は後天的である傾向が大きいだろう。

すでに家庭という集団がもっている信念等をそこに生まれこんだ個人が習得するという意味では、集団的自己と個性的自己の矛盾は起きようがないはずだ。

しかし、すでに家庭の集団性は低下して、生きるために共生していく機能はほとんど社会へと外部化されていて、家庭に残っているには、感情的交流、消費生活、レジャー、そして子どもがいる場合には「養育機能」が残っている。(介護の話はここでは省略する)

そのような中途半端な集団のなかに、どのような信念体系、思考パターンが残っているだろうか。子どもは親が仕事で苦労して世間との付き合いで生き抜いている姿を目にすることはない。

そこでいきおい、親は子どもの養育に役立つはずだと、理想的な「言葉」を子どもに呪文のように与えていく。

集団的自己が欠損した状態で、個性的自己は「言語的」に形成されていく。

そして、外部化された知識教育、スポーツ教育、習い事の支援が親が役割になっている。

専門家は思春期にトラブルをかかえた子どもに、幼児期の親の愛情不足だという仮説を与えるが、上記の状況での「愛情」とは何を意味しているのか。

私は、それは交感、交流、相互関係で「信念等」を育てていくことであって、子どもに一方的に非現実的な「言葉」を注入したことが「交感不足」「愛情不足」と言われているのではないかと考えている。

複雑な現実を前にして、理想的な「言語」を個人の行動パターンとして、乗り切っていくことは不可能である。むしろ、その集団のなかで郷に入っては郷に従えという柔軟性が必要である。

必要なときには、自分を守るために自我の壁を強固にして、必要なときには、その壁を開いて、集団に溶け込んでいくような取り組みが必要だ。

思春期に不適応を起こしたり、心身症になってしまった子どもは弱いものだと誤解されやすいが、私には逆に、子ども時代に獲得した「信念等」をあらゆる圧力に抵抗して守っている勇者のように強くみえる。

しかし、その強さが生き物としての自分、集団的自己としての自分を傷つけていくのだと思う。

他者や集団に自分を開いていく勇気は、自分の不完全さ、弱さを知ることから始まる。

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