ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

声が聞こえなくなる

私の胸のうちに響いていた声が聞こえなくなってきている。

ずっとずっと前から導いてくれたいた声。

しかし、それが聞こえなくなってから私は十分空虚になったり、十分何も動けなくなった。

これが答えだろう。

なくして分かることがある。

だから、もういちど耳を傾けよう。

そこからしか何も始まらない。

繭の中 その2

繭の中というたとえが面白いのは、そのなかで、蚕が変態していくことだ。

たしかに、私たちもライフという三層構造の繭のなかで、一生をかけて、変容していく。

それは繭のそとが、変化を常態としており、それを固定しようとするいかなる営みも裏切られ、結局は、繭も、繭の中の創造物も、すべて変化していくのだ。

そうでないと、不可知の世界からみれば、存在さえゆるされないだろう。

ライフストレスとは、3層の歪みのようにみえて、本当は、とどまることをしらない、存在の秘密、空であり、妙であるリアルが、仮想の私たちの世界を圧迫していることに外ならない。

ストレスとは、苦であるが、それが苦であるのは、この繭のなかがシュミレーション世界、願望世界であるがゆえ、固定をしようとするがゆえ、見取り図、過去の経験でつくった、見取り図をリアルだと思い込もうとするがゆえ。

釈尊は、それを我欲といい、執着といった。そこから解脱するということは、死して、繭から出るということだけでなく、生きながらにして、繭から出て、不可知の世界、空や妙の世界に立ち、呼吸することだということだろう。

8つの聖なる道は、私のいうところの主体性訓練でもあるが、その正しさとは、空、妙、不可知の世界での正しさであって、自然の法則に合致しているというモラロジーのいうところの天理、天地自然の法則のことだが、これを記述しようとすると、繭のなかにからめとられてしまう。

正しさではなくて、バランスであるとか、関係性であるとか、表現は難しいが、ライフストレスを解消していくという現代的な課題に通じてくるのだと思う。

このような前提を無視すると、ライフスキルもまた、願望世界のツールとして飲み込まれていくのだろう。

一部分を取り出すと、まさに、ハウツー的な成功法のようにもみえるが、全体をバランスよく実現していくというふうに考えると、主体性の表現として、聖なる8つの道に相当するような深さをみせてくれる。

ライフスキル全体のバランスをとっていく、つまり、そのような関係性のなかで、生きること、そのような関係性のなかで生じた自分を育てていくこと。

EQ 個性 知性 のバランスとか、品性、人格、品格とは、このようなことを表現しているのだと思う。

たとえば、モラロジーの5大原理にしても、同様のしかけがあって、それらをバランスよく実践していくというふうにしか、表現できない何か、それを表現した背後を考えないといけないと思う。

ひとつずつ、ライフスキルをバラバラに実践しても、偏って、むしろ、ライフストレスが増大していくように、モラロジーの原理もまた、そのバランスのなかに表現したいものが込められているというふうに謎解きをする必要があるのではないか。

価値観の問題が残っているようにも思うが、結局、上記の実践のなかで、自分のおかれた状況、個性に応じて、信念が修正され、思考パターンが形成され、それはもはやスキルというよりは、その人独自の価値観として現れるのではないか。

そして、繭がやぶれていくにつれて、つまり、虚空に開かれていくにつれて、個別性もやぶれ、その価値創造は、それなりに、固定した何かではなくて、妙、空という裏打ちのある「生き方」になっているのではないか。

その途上において、ライフスキルが人格に浸透していくなかで、価値観があるかにみえるのであって、なにか、言語化した価値体系をそれぞれの人間が持っているものでもないだろう。

ただ、この繭のなかでの変容の物語、創造と破壊、固定と変化という、ドロドロと流れては固まる、この物語は、独自性のある世界に一つだけのものであって、ライフ、人生という総体という意味で、そこに価値観を読み取ることはできるかもしれない。

つまり、生命、生活、人生というものは、ライフの見方にすぎず、別物ではないということだ。

だから、この3つのひずみとして、ライフストレスはみえるが、本質的には、このライフ自体が創造物であり、願望であり、シュミレーションであり、そこにリアルがノイズとして苦をもたらしていることを内部的に理解しやすく説明しているだけだということ。

なぜなら、この3つのバランスをとったらよいと言われても、具体的にどうしたらよいか、3つのどこをどう動かせばよいのか、見えてこない、「3つのバランスが崩れているようにみえる」という繭の中でのサインとして考えたい。

聖なる8つの道、主体性訓練、ライフスキル、5大原理の実践、これらは同じことを目指しており、自分という主体がどのように生きるか。それだけである。

いくら考えても、トレーニングしても、何かを手に入れても、それが絵姿にしかすぎないとしたら、唯一、不可知の世界に働き掛けて、その結果としてライフのバランスをとるものがあるとしたら、主体性の発揮しかないだろう。

日々に新た、惰性ではなく、過去の焼き直しではなく、それを実践していくなかで、繭は不要のものとして開かれていくのではないか。

繭があっても、なきがごとく、妙、空、不可知の世界を前提にして、そのうえで、繭のなかで、他者と協調して生きることだ。

以上。

蚕と繭

桑の葉という「真実」を食みながら、蚕はそれをつくり替えて糸にして掃き出し、自らを繭の中に閉じ込める。

この繭は「不可知の真実」を素材としているものの、もはや蚕の生み出した、蚕にとっての「現実」であり、真実ではない。

この繭に映し出され響いているリアルな現実だが、それぞれの繭が異なるように、その蚕のものであって独自に生み出された現実である。

そして、蚕はこの繭のなかで姿を変じていき、いずれ繭をやぶって真実の世界に飛び立っていく。

このたとえが、どれだけ私たちの世界を表現しているのか、心もとないが、それでも大切なことが含まれていると思う。

全てを自分がつくっているというのだが、その自分もつくったものだから、本当の「つくっている存在」とは何かについて考えたくなる。

しかし、それは社会を含む大自然があって、人間を含む社会があって、脳を含む身体があって、これらは所詮、それらの関係性が生み出した自分なりの意識でそう思っている姿だから、結局、これらも繭に写された姿にすぎず、

本当に大切なことは、考えることも、表現することもできないことにきづく。

そのような現実の奥にある、意識の奥にある、みえない関係性の総体、空といったものに託すしかない。

これを「妙」とも「法」ともいっていたのだろう。あるいは、仏とも。

不可知の世界のことである。

糸を吐いている蚕にすぎない自分が、自分まで糸でつくっている存在が、生き方としてどのようなものを紡げばよいのか。

それは空の世界、関係性の世界は、常に私たちがつくった現実を固定させることを許さない。

変化こそが常態。諸行無常であるという。

私たちの世界は、てさぐりで記憶した見取り図のようなもので、経験でできた記憶の絵姿にすぎない。

もちろん、色もあり、音も、臭いも、味も、手触りもあるがゆえに、よくできた「絵」であるが、所詮、経験した記憶でつくった、手探りの見取り図の延長でしかない。

もちろん、この絵姿は、「動くもの」についても記憶したとおりに動くし、「原因と結果」があるようにも経験からして埋め込まれているし、よく検討してみれば、素朴な人間の体験からくる歪みと偏りに満ちているが、それは当然のことだろう。

むしろ、よく辻褄をつけたものだと思う。

私たちは、この動く見取り図のなかで、動こうとする。予測し、シュミレーションして生きていこうとする。

しかし、真実、不可知の世界の関係性から、その予測は裏切られ、エラーを起こす。

この思い通りにならない体験がストレス、苦、不快であるが、そのときの不可知の世界の関係性のゆがみや、ひずみを引き受けた内受容感覚を・・私たちは状況から「感情」のラベルづけをする。

思考、感情、意志、価値観など、ラベルを張り続けて、エラーを受け入れていく。

そして、エラーがおさまることを待つ、エラーがおさまるような動きをする。

そして、エラーが消えていく。

私たちのライフが、生命、生活、人生という層をもち、感性、感情、意志、思考、さらには価値創造の世界を拡張して創造していくのは、安全弁の安全弁というふうに、エラーを逃がす装置をつけて、さらにそのエラーを逃がす装置を上乗せしているようなものだ。

これに学問という秩序系、固定系の装置が乗ると、この歪みはさらに大きくなる。

変動する現実をおさえこもうとして、固定する作業をやりすぎたのだ。

もし、人間が幸福でないとしたら、それはこのあまりに巨大になった固定のために装置のせいで、本来の空がもたらしている「現実」が変化しなくなったかわりに、固定化装置が大きなエネルギーを消費して、私たちを疲弊させているのだろう。

単純に自然性の喪失という言葉では表現できない悲劇がここにある。

つづく。

杖で探るように。

目が不自由な方が、杖で歩く先に障害物がないのか、安全なのか、道があるのか、他者がいないのか、探っている姿がある。

私たちは、食事をするときに、それを食べて大丈夫なのか、耳をすますときに、不穏なものがないのか、大切な人がいるのか、あるいは見ることにしても、その状況におうじて、必要なようにみていている。

予測とシュミレーションをしているのだ。

そして、そのエラーに対処をしている。

つづく。

知ったうえで使い分ける。

不可知の世界の関係性のゆえに、何かが変われば何かが変わる、その統一的な連続性こそ、変化こそが真理であって、そのなかで安定や調和、秩序を生み出そうとする営みが生命であるといってもよいだろう。

だから、生命のありよう、生き物はそれぞれ、自分なりの秩序を生み出そうとするのだが、それこそがその生き物の本質でもある。

そうやって、たくさんの生命がそれぞれのありようで生きていることが、さらに大きな調和を生み出してもいるが、それもまた不可知の世界の関わりのなか、変化の海のうえにうかんだ、かりそめの秩序である。

人間も、基盤となる不可知の世界の関係性のなか、変化という常態のなかで、生を刻もうとするのだが、それは人間独自のやり方にならざるをえない。

この変化という基盤のうえに積み上げられた生命としての人間は独自の変化を秩序だてようとして、予測し、シュミレーションをして、次なる変化にむきあっていくが、そこには、予測に固執する極端と、そのエラーに執着して予測を変えていこうとする極端、さらには、予測と確認の作業から離脱して、シュミレーション世界が閉じている極端などがあるが、それらが、バランスをとろうとしているのが人間のありようである。

つまり、経験、過去から、神経ネットワーク、脳内伝達物質がいろなす、脚本を描きつつ、それは信念体系、予測の枠となり、体験を構築していく。過去が現在を創り出し、未来とはシュミレーションとして無自覚に存在する。

現時点での目標や自覚した未来予測は、そのように現在に創造したものにすぎず、別の意味をもっている。

シュミレーションは、無自覚である。

このような人間の生き方を、心と体、思考・感情・意志として、あるいは、個人と社会、自分と他者、様々な枠組みで納得し、説明することしかできないが、これらもまた、自覚できる説明のための創造、構築物に過ぎない。

そして、ライフ、生命、生活、人生という枠組みもまた、これらに優越するものでもなく、説明方法のひとつにすぎない。

よって、これらの説明方法は、何のために、どのように使うか、によって正当化されるものであって、どちらが真実、正しいかという問いは無意味である。

このような立場は、相対論、立場によって、どれも正しいということと誤認されやすいが、そうではない。

不可知の真実はあるにはあるが、それは人間には把握も、説明もできないということで、あとは、必要によって、認識によって構成した現実をもちだして、なにかを説明しているということになる。

だから、〇〇は、あなたにとっては正しいのですね、ではなくて、あるいは、〇〇はわたしにとってはあなたに理解されなくても、正しいのです、ということも間違っている。

ここに正しさという概念を持ち出す意味を問うのみである。

よって、あなたは、なにゆえに、そのように現実をみて、問いをたて、それを正しいのするのか。それによって、何をなそうとしているのか、そう思わざるを得ない必然性はどこにあるのか。

あいての生命としての独自性を知る手がかりになるだけだ。

社会生活で、よりよく生きようとする際の学びの在り方もまた、このような基礎のうえに立たないといけない。

だから、現実をそのように理解して、そのような手段で思考することによって、何をなそうとしているのか、そのような生命のありようは何を表現して、何をもたらすのか。

それをよく理解したうえで、使いこなす人財を育てていく必要がある。

タイムマネジメントでは、現実をどのようにみて、どのようなシュミレーションをして、どのように思考、感情、意志、行動を表現していくのか。

つまり、主体性の展開を問うことになる。

ロジカルシンキングでは、現実をどのようにみて、どのようなシュミレーションを4して、どのように思考、感情、意志、行動を表現していくのか。

ここに組織的な視点が入ってきて、人間関係という自分と他者の関係がはいっていて、

さらに、ストレス対処、レジリエンス、コミュニケーション、先読み・・

これらは、単体のスキルとしてみるのではなくて、職業領域で構築していく、シュミレーションパターン、思考パターンの育成法として、とらえたほうがよい。

経験から自分をつくっていく、スキルと呼ぶが内実は、生き方であり、秩序づけの方向性である。

こうして、人間学としては、ハウツーをこえて、スキルを内面化して、生き方のレベルまで彫り込んでいくさいの、領域の構築が社員教育だろう。

つづく。

統合と活用展開 新しい人間学

かつて、唯物論唯脳論、唯心論などの枠組みに悩んだことがあった。ホームページの人間学コーナーにも詳しいところだ。

このところの学びによって、整理できて来たのは、「説明方法」の限界による「疑似問題」であったということだ。

心とはなにか、心身相関の理由、非物質である心がどうして物質である身体に影響を与えるのか。

さらには、私たちが現実だと思っている世界が認識が生み出したものだとすると、そのもとになる真実の世界とはどのようなものなのか。

これらの問いもまた、人間が有している認識方法、説明方法の限界からくる、疑似問題であったということだ。

だとすると、どうやって、これらの問いを整理して、しかも、日常生活において、活用していくのかについて、新しいパラダイム転換が必要になってくる。

科学的アプローチの限界を知り、それを活用しつつも、疑似問題に拘泥せずに、全体を描写する方法が必要になる。

そして、現代社会の様々な問題は、かつては、有効であった「説明方法」の限界によって、かえって、問題が再生産されていて、それを解決しようとして、さらに問題を複雑にしているということだ。

それは、たとえば、天動説に合わない観察結果が報告されるたびに、理論を修正しつづけて、それが煩瑣になっていったあげくに、地動説に譲らざるを得なかったようなもので、それも説明方法の変遷ということになる。

つまり、現在の人間学にまつわる、さまざまな問題も、説明方法の刷新を求めているのであって、それは真理というものでもなく、当面使われていくに過ぎないことも忘れてはならない。

イメージとしてまとめておくと、

身体をふくむ環境全般、そして、脳を含む身体。これらは連続して関係性をもっており、どのように分解、分類して説明するかは、説明の仕方にすぎない。

しかし、こうやって書いたとたんに、これらは、物質的な連関であって、これとは別に心、精神があるように思ってしまうが、それは使った言葉、概念のせいである。

人間の認識によっては、不可知な部分、意識できる部分があって、その意識できる部分を物質と精神に分けているだけなのに。

だから、環境、身体、脳・・これらがすべて認識によって構成、創造されているとすれば、すべてが精神ということになり、唯心論になってしまう。

しかし、このような混乱は疑似問題であって、説明につかっている言葉や概念の限界によるということを言いたい。

大切なことは、私たちの意識や感情、概念も、すべての関わりのなかで創造、構成されているものであって、「すべての関わり」という場合には、精神とか物質とかの区分はできない。

「精神/物質」以前の関わりの世界・不可知の世界にあって、関わりの連鎖、拡大、縮小、さまざまな動きがあって、そこから私たちが自覚できるすべてのものが生み出されている。

その不可知の世界に支えられた自覚できる世界は混沌であるのだが、そこに生きていく中で人間としての秩序をつけていこうとする創造的な営みがある。

そこから世界も、物質も、精神も、理性も、感情も、意志も、あることとされ、創造、構成されてきた。

しかし、不可知の世界では、変化のなかで、関わりが変化して、動きが変化して、この秩序づけたはずの意識できる世界もまた、変化にさらされる。

その動きもまた、自覚できる感覚、痛み、感情、気づきなどとして、表出される。

過去に秩序づけたもので、現在を生きようとして、そこにエラーがでて、さらにその表現を受け止めて、シュミレーションして、さらにエラーをさぐっていくという、破壊と創造がつづいていく。

そうやって、不可知の世界での関わりの連鎖が末端の意識できる、主体性の世界として、消費されて、一応の終わりがあるかにみえて、次に進んでいく。

そうなると、生と死もまた、そうやって、人間が創り出したものであって、関わりの連鎖の当たり前の動きのなかでは、とりわけ、意識してラベリングするようなものでもない。

しかし、人間のライフとは、こうして、関わりの連鎖があるなかの一定の層をしめているもので、それが表層的であるとしても、それが人間だというしかない。

人間としての生を全うするという問いのなかで、この記事は活用されるべきものなので、今の生き方をどのように改定すればよいかと問うしかない。

予測、シュミレーションは無自覚に起きている、信念とは、その予測の枠組みであって、願望世界にひびをいれる不快な現実とは、予測に対するエラーをうまく表現しているということだ。

しかし、この表層の動きは、結局、大きな無自覚の関係性の調和という大目的のなかで起きているので、大きな調和を目指すことで、「結果としてエラーが消える」ことが大切だ。

不快、痛み、感情、悩みは、そのエラーを表現しているので、この非常用ブザーを消すような操作に意味はない。身体に気をつけよというのではなくて、無の関係性に気をつけよということだ。

つづく。