ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

願望世界と目的世界

願望世界が自我の働きだとすれば、目的世界は、主体性の働きということか。

生活レベル 目標の実現レベル(人生目的、生命存続をかなえる)

人生レベル 目的の実現レベル

生命レベル 生存の実現レベル 無自覚 自然性

資源確保

関係性の進展

価値観の創造

目的、目標がむずかしいのも、ライフの三層構造と関連がある。

主体性をつかって目指す目標と究極の目的

物語性   継続発展性

社会性   関係性拡大性 

自然性   統一的連続性

この3つの合成が目的を形成する。

そして、そのための目標をどのように生み出すかが主体性の発揮になる。

このようなことを意識化しないと、

ただ、やりたいこと、したいこと、という表現になってしまう。

これまで、あまりにも目的、目標が無自覚であったから、ライフがゆがんだのではないか。

人間学として、どのように生きるか、のなかに、目的、目標の3階層がないとおかしい。

では、欲求論、自己実現論とはどう違うのか。

それは機械的反応になり、主体性が消えてしまう。

主体性とは、目的、目標、手段についての創造と運用になる。

目標とは何か。

目標についての研究が必要。

師の説のうけうり、うのみであったように思う。

目的と目標の関係もよく知られている。

生命の目的

生活の目的

人生の目的

さらには、それに付随した目標。

このような議論になぜ抵抗があるのか。

それは実のところ、不可知であるということもあるだろう。

だからこそ、自分が決めるもの。

もっといえば、自由のもうひとつの側面が目的と目標をもつことではないか。

自由が主体性だとすれば、目的と目標こそ、主体性の核ではないのか。

現在の主体性訓練は、機能としてみた自己である。

しかし、ひょっとしたら、目的・目標としての自己という主体性があるのではないか。

主体性と目標・目的の考察、自我と願望との違いなど。

久しぶりの投稿

このブログに書くのはいつぶりだろうか。

ここまでの道を振り返り、これからの道を見通すために、私はたちどまった。

もっと正直にいうと、歩けなくなった。

これまでの呪縛から離れ自由になったともいえる。

何のために、何を目指してと自分に問いかける。

しかたないだろう。

ある時期の私は、そのような固定した道に背こうとしていたのだから。

朝起きたときに、目の前に、真っ白に積もって足跡もついていない、そんな一日がないだろうかと夢想していたのだから。

繰り返し、焼き直しの毎日にあきあきしていたのだ。

そして、これまでの道をあるいみ否定して立ち止まって。

どうしようと考えている。

やりたいことをすればいい。行きたいところにいけばよい。なりたいものになればいい。

そう、こどものように自由になればよい。

でも、動きださず、怠惰になった私がいるだけだ。

これはどうも自分をだましたのではないだろうか。

大切なものを捨てさせるために、自由になりたいという思いを利用されたのではないか。

本当の自由とは主体性のことだ。

しっかりと自己決定して、誠実に進んでいく道であって、ただの過去からの道の破壊などではない。

今回の「自由」は過去の否定であったのではないか。

もっとしっかりと自分の歩いてきた過去を肯定してよいのではないか。

毎日が惰性、繰り返し、焼き直しであったのは、別の原因なのではないか。

むしろ、同じ生活の繰り返しの中に、怠惰からの自由があるということもある。

だから、繰り返しや継続の否定が自由であるはずがない。

私が過去を否定したのは、願望がかなわず、傷ついたからだろう。

だから、やめようと。

しかし、本当に不自由だったのは、その願望にしがみついていたからだ。

はたして、過去は願望だけだったのだろうか、そこにはリアルな関わりや充実感はなかったのだろうか。

日々、新たという意味を取り違えたのではないか。

願望と目標は違うと教わった。願望は具体性がなく失望に変わるとも。

では、本当は目標とはなんだろうか。

具体性があればよいのか、期日数量がきまって、取り組んでいればよいのか。

具体性、自主性、イメージ、行動化というが、それは本質なのか。

目標の本質とは何か。

人生に目標はなぜ必要なのか。

もういちど、考えてみよう。

私が求めているもの

私的な願望

ワクワクする出会いがほしい

共感と相互的な成長のある仲間、コミュニティがほしい

クリエイティブな活動をしたい

素直に生きていきたい

それが社会的な役割を定めていくと、ゆがんでいく。

義務や自己犠牲になる。

そして、何かを達成したのに、何かを失っていく

だから、まずは目指すものをもう一度再確認しよう

魂の栄養を生み出す農夫になろう

魂の蘇りの場としての人生劇場、シアターをつくろう

日々を大切に生きていこう

そのためのヒントになる声を聴いていこう

感性、アートを大切に

行動化を忘れずに

人間を全体でとらえて

そして人間が本当に幸せに暮らせることを願って

自分にできることをなしていこう

あるものから予想して限界をつくり諦めるのではなくて

ないものであっても心のうちに確たるものとして定めよう

他者が何を望むかではなくて

自分が求めているものを明確にしよう

それがこれからつかっていく本当の言葉の魔法である

ライフストーリー

私はよく講演でも、出来事の積み重ねをどのようなストーリーで解釈しているか、つまりライフストーリーが重要だと話している。

不思議なもので、その筋書次第で、失敗だと思っていたことが妥当な意味あることに変化したりする。

渋柿のしぶのように、ちゃんと加工することで甘さを増していく。

私事だが、私はひとつの道をすすんできたが、それが挫折であるかに思い、落ち込んでいた。

しかし、それは他者がもっている価値観、世間的に認められたもので解釈しようとしたがゆえのことで本質的に、わたしのライフをつらぬくものではなかったと気づいた。

私の人生は、楽しさを探していた、興味関心を探していた、探求の楽しさを求めていた、その即興の楽しさにかけてきた。

そうして、ふりかえったとき、私の人生がどれほど、面白く、輝いていたのかに気づく。

そうなんだ。

だから、これからもやっていける。

私は他者の人生のストーリーもそのようにして、発見する手伝いをしていきたい。

(無題)

人間の変容をもたらすのは、環境とのやりとり、関わりですが、動物と異なるのはこの環境が物質的・社会的・精神的な合成物であるということです。

神経質な人が見ている世界は、繊細で危険に満ちた世界であり、外向的な人が見ている世界は、チャンスに富んだ魅力的な世界です。

その意味で呪術的世界、神話的世界、宗教的世界、封建的世界など、その時代の人間が見ている世界は今日の私たちが見ている世界とは異なっています。

神の実在が前提だった世界では、その有り無しを議論するというよりは、神聖な生活の一部であったでしょう。

私たちが経験を積みながら最適化した信念・思考・行動は、その時代、社会、そして自分の経験した世界から生まれたものです。

しかし、その結果が歪みを生み出しているということは、見ている世界がゆがんでいるということになります。

それを聖人・学祖が見ていた世界、科学的に矛盾のない世界を再構築して、そこで最適化した信念・思考・行動を生み出せば、よい結果を生むのではないか。

では、この「世界」の変容はいかにしてなるか。

それは繰り返しの体験しかないとされています。

子どもが物の名前を憶えて、今度は名前から物の姿をイメージするという繰り返しをすることで、私たちは言語とイメージが接続した「世界」を獲得します。

神が実在する世界を獲得するのは、繰り返し生活の中で神に祈り、神に奉仕し、神とともに暮らすことです。

祖霊が実在する世界を獲得できるのは、いますがごとく、手を合わせ、お花、お線香、灯明、お水や食べ物をささげ、報告をし、祈らせてもらうからです。

先人がお手本をしめしながら、そのような「世界」を獲得していきます。

最高道徳の実行は、そのような「最高道徳の世界」構築にむけてのもので、その繰り返しで本物になっていきます。

そして、その精神的世界が本物になっただけ、それをふまえた信念・思考・行動が最適化されていきます。

つまり、行動化のステップ、従来の精神的世界を有しながらも、最高道徳の世界で求められる考え、感じ方、行動を繰り返していくという段階があります。

次にそれを繰り返していくなかで、世界創造のステップとして、世界の見え方が変わってきて、自然に最適化された、新しい考え、感じ方、行動が生じてきます。

これは私の反省なのですが、これがうまくいかないとしたら、1段階の従来の世界のままで、新しい行動化をしていくが、結局、世界が変わらずに行動も戻っていくということかと考えます。

しかし、この座談会では、多くの先輩方がたくさんの知識を得て、発する言葉が変わり、行動も変わっているようです。

思うに、私は学問的に人間科学や人間学を学んできて、その中でモラロジーも検討してきたために、繰り返しの「信念」構築という作業を経ていないのでしょう。

心すべきことだと考えています。

不可知の世界へ

この世界に何もないときづいて

はじめて不可知の世界が見えてくるのではないか。

この世界で生きていないときづいて

はじめて不可知の世界で生きていけるのではないか。