ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

援助にかかわる受容

ストレスフルな出来事を前にして受容をすすめて、具体的な行動を選択している限り主体性が失われることもなく一定の耐性を維持できる。

しかし人間には生得的に仲間と集団で困難に向き合って乗り切りたいという傾向があるので、自立心を維持して冷静な取り組みをしていく苦労がある。

そのようなときに、他者がこの出来事に関わってくるときに、他者の持っている集団の関わりにむけての筋書、正しさ、価値観に自分が取り込まれることがある。

それは協力であり、支援であり、問題への参加ではあるのだが、自分が望んでいる形式や価値観でのつながりではない。

そこで、この協力や支援がありがたいはずなのに、むしろ、ストレスを増幅して耐性が失われることがある。

一般的には支援者の存在は、ストレス耐性を高め、回復力を引き出し、健康を増進すると言われている。

しかし、この支援は「情緒的支援」と呼ばれるもので、自分を信じてくれて、認めてくれて、話を聴いてくれるといった共感的・肯定的な支援のことだ。

そうではなくて、この協力者が自分なりの価値観で問題を発見してその解決に挑み、すでに努力をしていた本人をこの解決プログラムの一部として組み込んで、評価や解釈をしていったとき、悪意はないのだが、この本人の「主体性」は失われてしまう。

この協力者が知識があり能力がある場合はなおさら、この本人のこれまでの努力はおろかなこととされて、問題解決への新しい役割が与えらえる。

困った人が本当は何を求めているのか、支援する人は相手の主体性や、「出来事」を前にしての選択や自己決定を阻害していないか。それを問題解決思考とは別のところで考えてみる必要がある。

上記の記事は一つの理想論であるが、他者が関わってくれるということは、他者も主体性をもって自分なりの支援をしてくるということだから、上記のような問題は起きることが必然である。

だから、他者が関わってきたときに「出来事」としてより複雑になってくるが、それを受容するというテーマが出現するのである。

他者の介入による圧力のなかで、相手の筋書の一部として扱われたとしても、そういう出来事だと知って受容しないといけない。

それができないのは、やはり生得的に自分が持っている「他者との関わり方」の願望のせいである。

思い通りにならない出来事が起きているだけでなく、それを支援しようとしてくる人が自分が思っているようには関わってくれない。そこまで含めて「受容」しようという出来事になっていることに気付こう。

せっかく目の前の出来事を受容して行動を続けてきたものに、それを無視するように他者が関わってきたと考えるのは明らかに「受容」に失敗している。

だから、ネガティブな感情に陥っていく。このことに気付こう。