自立と共感を掘り下げて
自立とか共感という言葉を使うと問題が見えなくなるが、もう少し掘り下げて考えてみたい。
人間の心を個人の身体・行動に並行して働くものだと考えるのか、人間が集団を形成するために都合がよいように働くと考えるのか。
人間が進化の過程で、集団間競争では集団のメンバーが団結しているほうが選択された(つまり、その集団のメンバーの遺伝子が残っていく)が、集団内では個人としての競争の勝者が選択された(つまり、その個人の遺伝子が残っていく)といわれている。
あるいは文化的遺伝子(ミーム)として文化社会的にその二つの傾向が伝わっているのかもしれない。
もちろん、仮説ではあるが、人間の心には個体保存的(自立・利己的)、あるいは集団保存的(他者への共感・利他的)という二つの傾向があるという。
これを利己的=悪、利他的=善というふうにとらえるのではなくて、どちらも大切な人間の心の特徴であり、このバランスや使い方のミスマッチが問題だと考える。
個人を守るために集団を形成したはずだが、いったん集団ができてしまうと、その集団を守ることが目的になって個人の自由を制限していくことになる。
道徳の起源もここにあると考えられている。
現代社会の集団はかつてのように区分が明確な生存上強固な団結を持つものではなくっている。
むしろ、個人として自立して、この大きな社会に適応していくように、社会の仕組みもデザインされている。
かつての時代には、集団のなかで利己的傾向を出す人が問題であったので、その制御のために宗教、倫理道徳、規範が重要であり、自己中心的=悪とされていた。
あるいは集団に服従しない者への周囲からの制裁的な圧力も容認される風潮もあった。
しかし現代では、個人の自由を阻害する圧力のほうが問題になっている。
ブラック企業、パワーハラスメント、モラルハラスメント、セクシャルハラスメントなど、集団のなかでも個人の尊厳をどのように守るかが重要になってきている。
これらのトラブルの背景には、人間が有している集団的同調傾向、集団のなかで自己を抑える傾向などが「悪用」されていると言ってもよい。
ライフストレス研究では、この人間の二つの傾向をどのように調和させていくかがテーマになるが、そのためには善悪を超えてありのままに人間観察を進めていく必要がある。
生得的な自己防衛反応や、集団の同調化にまかせるのではなくて、主体性をもった個人が他者や集団に対して、どのように信頼感や貢献感を育てていくかという新しいテーマがここに現れてくる。