ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

【社会で共有されたライフスタイル】

個人心理的人間観で、自分の動機や欲求で行動が生まれると考えているのが現代である。

しかし見たことも思い浮かべることもできないことを求めることはできない。

成長の過程で、「欲求(動機)⇒ 行動 ⇒目標物」という学習をしていることを忘れてはいけない。社会の中にある「物」「事柄」「サービス」「情報」が誘因となって欲求を引き出している。

もちろん、この欲求・動機を基本的なものに集約して分類すれば、�@ホメオススタシスに基づく生理的欲求 �A感情的な反応 �B内発的動機(感性・新奇・認知動機)�C外発的動機(親和・承認・達成動機)に分類される。

さらには、情報や信念を含む自分の認知世界において、辻褄が合わなくなり矛盾が生じることを避けようとして、認知や行動を変えるという「認知的不協和理論」で人間の行動を説明することもできる。

科学は普遍を求めるので、いつでも、どこでも通用するように「抽象化」を進めていく。

しかし時代の変遷のなかで生きる人間としては、そのような社会の在り方や時代の臭いを抜き去ったもので説明可能だとは思われない。

江戸時代、明治時代、大正・昭和初期、戦時中、戦後初期、高度成長期、平成の時代・・

このなかで社会がどれほど変化してきたか、そして人間の心もどれほど変わってきたことか。

宗教の時代、倫理道徳の時代、哲学の時代、科学の時代、心理学の時代、脳科学の時代・・人間を説明する手段も変わってきた。

このなかで「家族」のありようも激変してきた。社会が変われば家族も変わり、そして個人も変わる。

個人心理的人間観で人間を説明しようとすると、「自分の心の問題」「その問題を生みだした環境」として出来事が認識されてしまう。

「やる気が出ない」「やりたいことが見つからない」「どのように生きたらよいか分からない」「他者が信じれない」「自分に自信がない」「生きることが虚しい」

さすがに、心理学の世界でも、これらは「意味」「価値観」「信念」の問題だと見抜いていて、トラブルを抱えている方に対して「意味の発見」「認知の修正」「信念の修正」にむけて援助しようとする。

しかし本当は個人の前に「家族」がどのように変質したのか、「社会」がどのように変わったのか、その中で「個人」の心がどうなったのかと問わねばならないのではないか。

人間の個としての自立・独立を進めるのが現代の精神ではあるが、本来的に人間は集団のなかで生存していく生き物である。

だから、集団のなかで他と同調し協調的に動くような心の仕組みを持っている。親和動機、承認動機、達成動機は社会の中で生存していくために人間の中で働くものだ。

感情面でも、仲間が苦しんでいるときに助けないと罪悪感を持つ、仲間を傷つけた集団の敵には怒りが湧いてくる、仲間でも規範を守らない者へ罰を与えたいと怒りが湧いてくる、集団の長に対して認めてほしい、貢献したいと思うものである。

もちろん、このような集団性の「利他心」と、自己保存的な心はせめぎあって、人間の多彩な心を示してくれる。

ただ、現代社会では、かつてのような、生存のために所属しないといけない集団は、その性質を変えていき、集団の持つ生存保証の機能は外部化されて、大きな社会のなかに埋め込まれるようになった。

会社への所属、地域参加、家族への所属は、人生上重要なテーマではあるが、仮に一人で暮らすようになっても、かつてのように生存の危機になるわけではない。

地域も変えて住むことができ、会社も転職することもできる、かつての部族的な集団機能の一部を残してはいるが、ほとんどの生存上必要な機能が社会化されたのだ。

ここにあって、かつての集団の中で人間を制御してきた「共有された神話」「物語」「信念体系」「価値観」「文化」「規範」「倫理」というものが社会の中に広がって、私たちは、巨大な社会の「空気」といったもので行動を展開している。

ここから導き出される考え方は、�@社会の空気をしらべる(共有化された信念体系・ライフスタイル) �A共有されたライフスタイルと個人のライフスタイルとの関係を調べる。 �B �Aをふまえて個人心理的問題へのアプローチを見出す。

私が注目しているのは、社会で共有されているライフスタイルは生存を支えていく実体を有していることだ。

産業構造、市場経済、社会制度、法規制、倫理道徳、文化などとの相互関係がそこにはある。

社会の受け持ち分野と家庭や職場、個人の受け持ち分野がトータルで機能しているはずだ。

ひとつの仮説であるが、従来の生存の仕組みに合うように成立していた文化・信念体系・倫理道徳などが、社会構造が変わったのに残っていて問題を生み出しているのではないか。

あるいは私たちが共有している文化的信念・ライフスタイルの型を超えて、社会のほうが変わってしまったのか。

つまり従来は「社会の生存の仕組み」と「社会で共有される価値観」が一体であったものが、分離して矛盾を生んでいるのではないか。

それが個人の「心理的問題」に矮小化されて苦しみを生み出しているのではないかということだ。